【永遠の日】にちなみ・・1000歳まで生きる人類
今日10月8日は「永遠の日」(とわのひ)だそうですね(笑)
せっかくなので【永遠】について少し書いてみたいと思います。
終わりの先は?
【永遠】ってなんでしょうか?あなたは考えられたことはありますか?
永遠、無限、未来永劫、ずーーっと・・。
「いついつまで」と決められていないことですよね。終わり、というものがない。
もし永遠なんてものはなくて、ものごとにはすべて終わりがあるとしたら、その先はどうなるのか?
たとえば、今ここで生きている【からだ】と【意識】に終わりがあるとしたら、その後はどうなるのか?
【意識】も【からだ】も死んだら消えるとか、あるいは【意識】は永遠だけど【からだ】は寿命がきたら亡くなると、ほとんどの方が考えておられるでしょう。
たとえば、地球や宇宙に終わりがあるとしたら、そのあとはどうなるのか?
「そんな先のことは自分が死んだあとのことだし、何千年何万年かあとのことだろうから、考えてもしかたがない。そしてそんなこと誰にもわからない。」という声が聞こえてきそうです。
終わった次にあるのは、また新しい別のものか、それとも何にもない【無】でしょうか?
では、【無】とはなんでしょうか?
もし人生が一度きりで、年がたつごとに老いて90歳くらいで死んで・・その先に何もないとしたら、なんで人は善人になるように努力したり、悟ろうとしたり、能力を高めたりするのかな?・・そう考えたことはありませんか?
べつに悟ったところでいずれ【無】になるなら・・、なんのために悟りを得て、あるいは最高の能力を得ても、なんだかどうせ意味がないんじゃないか?と。
別の見かたをすれば、「終わりがあるからこそ、精いっぱい生きたいのだ!」「なにかのカタチを残したい、偉業をなしとげたい。」「やったことは返って来るから良き行いをするのだ。」という意見もあるかもしれません。
たしかにそれはそうかもしれませんね。
ほかにも「どうせ一回きりの人生、いつか終わりがくるんだから」と、努力も精進もせずに、いまが楽しければOK!と刹那的に生きるひとも多いでしょう。
いろいろな考え方があると思います。
しかし私は、「そのそも何故終わりがあるものを創るのかな」「この一生を得て努力したことは水の泡になって、また一からやり直し?」などグルグル考えてしまい、どうしても納得がいかなかったのです。
固定観念を打ち砕いていくことで、ひとは進化していきます。
私は、こう思いたいのです。
ずっとみんなが、終わりなんてなく、栄えていくことができたら。
少なくとも90年100年とかではなく、もっともっと長く生きることができたら・・。
終わりって、なんか悲しくないですか?(でも自我は、悲しみや苦しみもふくめたいろんな感情を体験したいのです・・)
私は、大切な愛するひとといつか別れるのではなく、その人も自分も死なずに、老いずに、科学が発達することで容姿などのカタチを変えたとしても、お互いが納得いくまで共にすごし、そしてずっと愛しあい続けることができたら嬉しいなと・・そう思います。
なぜ、悲しみを選択しなければいけないのでしょう?人のからだはかならず死ぬ、ほとんどの人が迷うことなくそう信じています。
私の親も「あと少ししか生きられないから・・」「もう年だからしょうがない」などと言います。世間でもだいたいそうでしょう。最近では終活などという言葉もでてくる始末です。
人はそんな悲しみの終焉を迎えるのが、ほんとうにあたりまえなのでしょうか?絶対の真実でしょうか?
いろいろな固定観念があります。
わたしたちは非常にたくさんの固定観念を握りしめながら、その観念にもとづいて「良い、悪い」と言い、じぶんの行く道を選択して生きています。
決めてかかっていること、思い込んでいること・・これを外すと、自由になれます。
これまで人類は、さまざまな固定観念を打ちくだいて、いままでやってきました。そのたびごとに進化してきています。地球のまわりを太陽がまわっているという固定観念(天動説から地動説)などは有名なものですね。
平安時代のひとは、平均寿命が30歳くらいだったそうです。
戦国時代のひとからすれば、鉄砲でさえ驚いたのですから、戦闘機や戦艦などをみたら腰をぬかすかもしれません。
江戸時代のひとからすれば、文(ふみ)で連絡を取り合う時代ですから、LINEなんて信じられないものでしょう。
つまり言いたいことは、私たちがふだん当たりまえだと思っていることや、接している身近なモノなどは、昔の人・あるいは地域をまたいでジャングルの奥地に住んでいるような人たちにとっては、当たり前ではないということです。
「信じられない!」と驚くことです。
「人のからだはかならず死ぬもの」という固定観念は、この地球上において私たちの最大、最終のビッグテーマです。
これまでわたしたちが超えたことのない、置き去りにしてきたテーマです。
想像できることは存在する
長いあいだ、不老不死という概念(問題)が取り上げられています。しかしいままで私たちは、その答えにたどり着けていませんでした。
しかし問題と答えはセットですので、問題が存在するということは同時に答えも存在します。片方だけでは存在できません。
答えを得るのに時間がかかってきましたが、この令和にはいり、いよいよこのテーマの答えに人類はたどり着くと私は思っています。
「1000歳まで生きる人類はすでに誕生している」との言葉で有名なイギリスの科学者オーブリー・デ・グレイ博士は、人類は不老不死になると断言されています。
ほかにも、amazonのジェフ・ベゾスやビル・ゲイツ、そしてGoogleも、不老不死の研究には相当力を入れているそうですね。科学が追い付いてきて、科学的に証明される時代が来て、嬉しいことです。
人の概念として想像できるものは存在する、とよく聞きます。
でもそれを否定するひとの目の前には現れないか、あるいは現れても遅くなるでしょう。しかしどこかの別次元には存在するのです。
みんな自分の信じる世界を生きています。同じ世界に生きているようでも、みんなそれぞれ違う世界です。パラレルワールドという言い方もできるでしょう。
大本教の出口日出麿さんは「存在しないことは、概念として想像すらできない」ということを著書に書いておられます。
わたしはスピリチュアルな観点から、不老不死(永生常若)でいられることは可能で、しかもその方が自然なのだいう答えに行きつきました。「だいたい〇歳までが肉体の寿命で、肉体はかならず死ぬ」という考え方はむしろ不自然であると思います。それはまさしく固定観念です。
もちろん、人はみな創造主で自分の現実は自分で創るのですから、不老不死を選ぼうと、今までのように90歳くらいまでを選ぼうとどっちでもいいのです。信じたようになるのです。
いずれにしても、これまでの常識はつぎつぎと打ち破られるでしょう。思い込み・固定観念・常識のネジをはずすことで可能性がひろがり、人類はもっともっと自由になれます。
これからも私は、人類は全員がますます弥栄にむかって未来永劫・永遠無限に進化しつづけていくことを信じていますし、それだけに尽くしつづけていきます。
「人が想像できることは必ず人が実現できる」
ジュール・ヴェルヌ(フランスの小説家、SFの父)