【なんで私だけ・・?】こんな人生、もうイヤだ!
【なんで私だけ・・?】疲れてくたくた、もうイヤだ!
日々の生活で、あなたはクタクタになるまで働き、疲れ切ってしまうことはありませんか?
人の役に立つように、人に尽くそうと、懸命にがんばる。
もしあなたが目一杯働いても、さわやかで充実した気持ちであるならそれはすばらしいことです。
でももし、人のために頑張っているのに精神的な疲れが残り、「なんで私だけこんなにがんばらないといけないの・・?」と損をしているような気持ち(被害者になっているような気持ち)になるとしたら、それはどうしてでしょうか?
@家族のため、人のためにと家事や仕事をがんばる(ほんとうは手伝ってほしいのに・・自分のやりたいことや望みを犠牲?にして・・)
Aクタクタ・イライラ・焦り(自分が置いてきぼりなので後れをとっているようで焦る)
Bストレス解消に走る。イライラから他人へ八つ当たりして、さらに意気消沈。何もかもバカバカしくなる。
C「なんで私だけ?」と損をしている気もちになる。
心当たりはありませんか?
わたしは以前、毎度毎度こうでした。
こういった被害者意識は要するに「かわいそうな私」と、自分を憐れんでいることが根底にあります。
そして、こういった【自己犠牲】は他人のためにもなりません。
あなたはご自分をおとしめ、傷つき、限りないストレスをかかえます。
その一方で他者を甘やかし、結果相手はなにもしてくれない、魅力的でない人に成り下がり、甘えや怠惰の心がますます肥大するのです。
たとえば、相手がこどもであれば、親がくたくたに疲れながら無理してやってあげると、こどもは何もできない甘えるだけの頼りない子になってしまいます。これは、旦那さんや友達でもそうですね。つまり、ぜんぜん相手のためにならないのです。
前の職場で一緒だった70代の女性は、すべてご自分で家事をまわし、毎日だんなさんの肩をもんであげ、深夜まで待って一緒にごはんを食べ、早朝にパートに出る・・という生活をされていました。家族の誰も手伝ってくれないそうです。おまけに、旦那さんの希望で飼いはじめた犬の世話も、すべて自分がやっているそうです・・。そして犬が夜中に鳴きはじめたら、家族や近所に迷惑をかけるから・・と眠いからだを起こし外にでて犬をなだめるそうです。
よく「からだがしんどい」と、つぶやいておられました。
ちなみに旦那さんはメタボで、いまだにお米も炊けないそうです。
べつに否定するつもりはありません。いいのですけど、わたしは何ともいたたまれないというか、「・・・」という感じでした。
【お互いのためになっていない】のです。やる方もやってもらう方も、自我がますます肥大するのみです。
しかも、いやな気持ちで無理やりやったことは、たとえば料理でしたら、その料理に【疲れた波動】が確実に入ります。ですので、カタチばかりは完成しても、その料理の波動はひくいのです。
本当なら人に手渡すべきは、よろこびや感謝・信頼などの【氣】であり、カタチは二の次です。
ドラマのヒロインでいたい気持ちはわかるけど、そんなことして遊んでいる場合ではない
あなたが笑顔でよろこび、裕福で、元気で満たされていないと、まわりも本当には進化発展していかないのです。
・あなたがよろこびに溢れると、まわりもそうなっていきます。
・あなたが笑顔になると、まわりのすべてが微笑んでいるのが分かるでしょう。
・あなたが裕福になることは、たくさんの富を出しますのでたくさんの富が入ってきます。結果、経済がおおきく循環してまわっていくのです。
・あなたがいま元気でいることは、まわりのみんなを元気づけ活性化します。
・・・あなたが幸せになると、あなたの宇宙すべて(あなたのまわり)が同時にそうなります。
なぜなら、あなたの宇宙(※全体のこと)=あなただからです。
ですので「かわいそうな私」と自分を憐れみ、被害者意識でいることは、確かに冒険ゲームとしては悦に入れて楽しいかもしれませんが、今あなたが幸せにならないと、まわりのみんなも本当には幸せにはなれないのです。
悲劇的なドラマのヒロインでいたい気持ちは分かります、しかしこの令和アセンションの時代、そんなことをして遊んでいるヒマはないですし、そんな場合ではありません。
この文章を読んでくださっているあなたは、もうじゅうぶんではありませんか?
もうじゅうぶん、辛苦をなめて、酸いも甘いも経験されてきたのではないでしょうか?
わたしたちはあまりにも長い間、自我にとらわれ自分を見失い、くるしみ続ける期間が長すぎたようです。
ひと昔まえまでなら、それも許されましたが、もう時代が繁栄のみの時代に入りました。
今後は、積極的に自分からしあわせで居つづける努力が必要かもしれません。
根本的には自分を愛することがテーマ
自分をたいせつにしないことは他人もたいせつにしないのと同じです。
自分を罰することは、他人を罰しているのと同じです。
つまり、あなたが辛いと、まわりのひとも魂的にはつらいのです。
ですので結局は、自分を愛するということがどれだけたいせつか、ここが私たちのおおきなテーマだと思います。
ひとは先祖代々受け継いできた強い罪悪感から、なかなか自分にしあわせを許せないことがあります。
心あたりのある方は、今世ではかならずその罪悪感をいやし、乗り越え、浄化することがおおきなテーマです。その目的をもって生まれてきています。
・自分自身を愛せない(許せない)から不安、だから人に愛してもらおう、認めてもらおうとする
・人に愛してもらうために尽くし過ぎたり「かわいそうな私」を演じたりして、同情をかって愛されようとする
・自分で自分を憐れむためにも、「気の毒な状態」に(無意識にでも)身を置く
・被害者(弱い人)でいたら、これ以上自分を責める必要はない、人からも責められない。(つまり、加害者になってこれ以上自分を責めたくない、これ以上の罪悪感には耐えられない、だから意識は「ずーっと不幸で居つづけるから許してください」と、じつは思っている。)
・・あとがき
自分に対する憐みや自己犠牲は、自分も相手も幸せにはしません。
同時に、他人に対する憐みもおなじです。
相手のエネルギーをだだ下がりにします。
「かわいそうな○○さん」はとても失礼なのです。
というのは相手の強さを信頼せず、相手には幸せを選択する権利もない、かよわき被害者とみなす・・。これは内心、自分を上にみているからです。人は尊敬する相手にたいして「スゴイ」とは思っても「かわいそう」とは思いません。
かわいそうな人・・その同情は、何のチカラにもなれないどころか、相手をますますパワーダウンさせるだけです。
相手はすべての状況を自分自身で選び、それを乗り越えることができる勇気あるたましいと見なし、相手の強さを信頼すること、強さに焦点をあてることこそが、ほんとうにその人を勇気づけるチカラになります。
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