【かわいそうな私】きっと「いつか」幸せがやってくる・・?
【かわいそうな私】のほうが、都合がいいかも?
幼いころに過酷な体験をしたひとは、わりと自分をかわいそうと思ってしまいがちです。
自分をあわれみ、不憫だと思い、自分の人生を嘆きます。
そして、そんな自分に酔っているとも言えます。
それは、ある意味自分の人生を自分で創ることを放棄し、あきらめ、拗ねているとも言えます。
被害者意識でもあるのです。
自分で嘆きながら、そんな状態にどこか興奮しているのです。
まるで麻薬のようにクセになってしまっています。「痛いのが生きているようで興奮する・・」といったような感じでしょうか。。
ほんとうの幸せに興奮するのではなく、にせものの興奮です。
要するに非常にきびしい言い方をすると、【あわれなシンデレラ】【悲劇のヒロイン】としてドラマの主人公でいたいのです。
・かわいそうな自分でいたい(そして自分に同情して浸りたい)
・気の毒な環境の自分でいたい(同情してもらえるだろう、気にかけてもらえるだろう)
・苦労のおおい、大変な人生の自分でいたい(そして同情されたい)
・苦労人だけど「良い人」「すばらしいひと」でありたい(賛同されるだろう)
・加害者でなく被害者でありたい(そしてそこから強く立ち上がり称賛されたい。同情されるだろう。少なくとも攻撃されない、責められない)
・波乱万丈で大変な人生でありたい(そしてその方が経験おおくてすばらしい、と思っている)
・シンプルな身なりでいたい、決してブランド尽くしではなく(その方が愛されるはず)
・ドラマの悲劇のヒロインでありたい(注目をあびられる・そして「いつか」立ち上がって称賛されたい)
・清貧で不憫な自分でありたい(そのほうが愛されるだろう・そして「いつか」立ち上がって称賛されたい)
・笑い飛ばすのではなく、シリアスで深刻でいたい(そのほうが深みがあるだろう)
・つらい幼少期、不幸な結婚など恵まれない自分でいたい(同情してもらえるだろう)
・なにかと「親切なやさしい犠牲者」になりたがる
(以上をまとめると、要するに気にかけて、ほめて、愛してほしい)
以上のような思いが、心当たりはありませんか?
(わたしは過去に全部ありました。)
シンデレラや白雪姫のお話のままですね。だからこういう物語は受けるのです。そして「いつか」しあわせになれると信じています。
しかし、「今」不幸なのに、その「いつか」は来るのでしょうか・・?
来るとしたら、それはいつでしょうか?
・・・・・・・・・・
しあわせになりたい、豊かになりたい、そう口では言いながら、じつは本心ではないのです。
あなたは、自分が本当はしあわせに生きられることを、深いところで知っています。
しかし、そんな幸せな状態にむしろ「なりたくない・・」
・・どうでしょうか?
なってしまったら、人から
・嫉妬されて攻撃される
・構ってもらえなくなる
・同情されなくなる
・守ってもらえなくなる
・味方になってもらえなくなる
など、デメリットの方がおおいと思っていないでしょうか?
ですから「幸せになるのがこわい」となります。
だいたいは幼少期の傷が原因ではありますが・・
そもそもなぜ、大変な人生・苦労を(選んで)歩んでしまうのでしょう?
それはおもに幼少期の体験がベースにあります。
・幼少期、さまざまな境遇や状況によって親に愛されていると感じられなかった
・否定されて育った、あるがままを認められなかった
・いじめ
親に愛されていると感じられないと(ほんとうは愛されていたとしても)自分に自信が持てません。いつも親(特に母親)の機嫌をうかがったり怒られないよう、心配をかけないようにと気にするようになります。
自己主張もひかえめになります。ついガマンをしてしまい、自分の意見をはっきりと言えません。なぜならわがままを言ったら迷惑をかける、余計認められない・・などと思ってしまうからです。自分の意見を通す(伝える)ことに慣れていないのです。
あるいは逆に関心を集めようとわがままをいうこともあります。(その場合は、のちに強い罪悪感に苛まれます。)
とにかく親に愛されることが幼いころからの一大目的になり、あらゆる場面で自分の判断を狂わせてしまうのです。正常な判断ができなくなります。幼いアタマでいろいろ考えるのですが、なにせ経験のない子どもです。
そして母親に愛されるためなら自分がすこし不幸であるくらいのほうが、気にしてもらえると思ったりもします。これはふだん意識しない潜在意識でそう思うこともおおいので、多くのひとは気づけないことが多いです。
コトバで否定されるのも同様です。なにを言ってもどうせ分かってもらえないと思いがちになります。あきらめてしまうのです。
自分の意見に自信も持てるはずはありません。自分の望みがあっても「どうせダメだろう、自分には無理だろう、叶わないだろう」という正常ではない思考回路になるのです。
暴力で押さえつけられるのも、女の子ならその恐怖から「自分には力がない」と思ってしまいますし、男の子なら逆に攻撃的になるかもしれません。
(あくまでも傾向としてですが、女の子は自分を痛めつける方向へ、男の子は他者を痛めつける方向になるそうです。わたしのまわりを見ても同意です。)
子どもの頃のこうした体験は、当然、人間関係にも影響をおよぼします。
健全な、気持ちの良い人間関係が築けなくなりがちです。
・愛されようと変に気をつかう
・自分が好きでもない人(友人含め)と流されるままに付き合う(相手基準のつきあい)
・人との距離感がつかめないから、押しすぎたり引きすぎたりして、ほどよい安定した関係が築けない。
つまり、上手に自己を表現できないのです。人にたいして(自分が愛されているかどうか)疑うこと(不信)がベースにあるからです。
愛を信じられないこの気持ちは、あらゆる人間関係において悩みやトラブルを経験することにつながります。
なぜなら、人間関係は愛で出来ているのですから当然ですよね。どうやって愛を交換すればいいのか(愛を発して、愛を受け取ればよいのか)経験がないから、わからないのです。
上記のような状況からくる挫折や失敗をかさねることによって、孤独感や自信のなさが生まれます。
しかし、幼いころのこういったつらい経験は、本人があえてそれを選択しているのです。
実は生まれるまえから・・
人はこの人生がはじめてではありません。何度となく転生をくりかえして、今ここにいます。
そして生まれるまえに、この人生でのテーマを、ある程度決めて生まれてきます。
自分のテーマをクリアするのに最適な状況を選択します。
どんな環境に生まれる、誰の元に生まれる、いつ生まれる・・。
幼いころに苦労や孤独を選ぶのは、理由があります。
・人生の初期においてみずから苦しみを体験することで、他人の苦しみを理解できる自分になる、そしていずれ人に寄り添いサポートするため
・もともと(先祖代々にさかのぼる)たましいの傷、罪悪感があるから、自分に幸せを許せない。
私のばあいは、「ごめんなさい」と思いながら生まれてきたのかな?と思うほど、罪悪感が強かったのです。(・・暗いですね、すみません)
その罪悪感については、ブログでは公開できないのですが・・。
ですので、幼少期の苦しさ・さみしさ・悲しみの体験は、今回の生において自身のテーマをクリアするために自分で選択したキッカケでしかなく、じつは生まれる前から、その罪悪感・自己否定・自信のなさ・申し訳なさ・・などの「タネ」をもっていたからこそ、そんな境遇をじぶんで選んだというのが、正確です。(非常に先祖代々までさかのぼる、深い深い罪悪感を誰しももっています。顕在意識は忘れています。)
ですので、「なにも抵抗できない幼子にたいしてそんな環境はかわいそうだ、許せない」というのは、見当違いなのです。
人はみんな、【かわいそうな存在】ではありません。からだは小さくても元々の魂は、自分の人生を自分で創ることのできる、尊厳ある意識です。
もしご自分の罪悪感が何なのか気になる、という方は、ハイヤーセルフ・神の自分にたずねてみられてもいいかもしれません。
もう大変な人生はやめませんか?
いまのあなたの人生で、「満たされない、つらい、苦しい、不安」そんな思いがありますか?
それなりにがんばっているし、人に対してもそんなに悪いことはしていない、というかむしろ人のためにと優しく尽くしているはず・・。
なのになぜ、なかなか幸せになれないのだろう?
いつもなんだか大変で、落ち着かず、波乱万丈といえば聞こえはいいかもしれないけど、やっとのことで生きているような余裕のない毎日。
お金もない、人間関係もつらい、仕事も不安・・。だからいつも安心できない。
・・疲れますよね。
上記のようなフィーリングがあたりまえのようにあなたの中にありませんか?
過去を振り返ってみると、生まれてこのかたずーっとそうだったから、あなたの中では(苦労やうまく行かないことが)あたりまえかもしれないけれど、これはとても不自然な状態なのです。
大変な人生・苦労を選んでいるのはだれかというと、大いなるたましいの視点にたち、深く突き詰めるとやっぱり自分です。
自我は納得いかないかもしれませんが・・。
ですから、大変な人生をやめると決めることも、あなたにはできるのです。
・・つづきます。