他人は鏡〜許すこと〜
職場で、周りにいつも怒られている(いじめに近い)方がいるのですが、先日あまりにも辛い状況を目にしたことについて書いてみます。
その方はいつもいつも上司や同僚から怒られていて、私は当初「この人はよほど仕事を真剣にせず、まわりのひとのがなにを求めているのかちゃんと考えていない、言ってみれば努力がたりないのだろうな・・」くらいに思っていました。
しかしあまりにも普通とは違う感じがして、もしかして障害を抱えておられるか、あるいは幼少のころの虐待などによる心理的な問題があるのではないか?と考えるようになりました。
そして、その方はやはり発達障害だったのです。
もちろんまわりはその障害のことも知っていて、ほぼイジメに近い辛辣な言葉を浴びせている。
たしかに仕事ができないのは誰がみてもわかります。
しかし、障害があるというならそれは仕方のないことで、私も発達障害についてあらためて調べてみましたが、状況(空気)が読めない、相手が求めていることが推し量れない、暗黙の了解というのがわからない、言葉どおりに受け取ってしまい言葉どおりに行動し相手をイライラさせる、通常のコミュニケーションができない、などと書いてありました。
知り合いの子どもさんが同じように発達障害で、そのお母さんはとても苦労されているのを目にしています。
ですので他人事ではない、強い憤りを感じました。
今度おなじような状況を目にしたら仕返ししてやる、ハッキリ言ってやる!とセリフまで考えて、イジメる人物を呪いました。
同時に、次あんな状況を目にしたら自分が耐えられるかな・・と弱気にもなったりしました。
たとえば学校のクラスの中で先生が誰かを怒っていたら、その子どもだけでなく周りの全員がダメージをうけていると言います。自分が怒られているのと同じだと潜在意識は受け取ります。
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そこで、わたしは高まる感情をいったん脇に置いて、内側内側・・に入って瞑想してみました。
すると、あることに気づきました。
それは、あのイジメている人は、そしてイジメられている人も、そしてまわりの見て見ぬふりをする人たちすべてが、いつかどこかの自分であり、そして今もほんの少しだけでも自分のなかの一部であるということに。
まわりは、鏡です。
今の自分の態度ではないかもしれませんが、確実にいつかどこかでそういう自分がいたのです。
そしてそうだった過去の自分をいまだに許せず、今も認められずに呪っていること。
それを外側のあの人たちは、とてもわかりやすく教えてくれたのです。
感情が高ぶっているあいだは、それがわかりませんでした。あんなひどいことをする人&ひどいことをされてもNOと言わない人、そのどちらも私とは全く違う人、他人事だと思っていたのです。
そこに「垣根」がありました。
あの人と私は違う、と。
でも今思うに・・違いません。
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ですので、感謝なのです。
やっと出てきてくれた。
ちゃんと見つめることができなかった、人の心の痛みが分からないいじわるな自分、言い返せない弱い自分、見て見ぬふりをする傍観者。そしてそういった自分を許せない自分。置いてきぼりにした暗い感情、怒り、悲しみ、憎しみなど。
そういうものをちゃんと自分のなかに受け入れ、感謝し、浄化するチャンスだと。
まわりの人たちはわかりやすく「こういう部分があったよ」と教えてくれている。
それをもう、二度と見捨ててはいけない。せっかくその人たちを通して表に出てきてくれたのだから。
ちゃんと感謝して浄化し、きれいな光に還そうと思いました。
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外側にあらわれたこと、結果として表面にあらわれたことは、もうどこをいじっても変わりません。
結果ですから。
ですので、結果に対して仕返しをしたり、悶々と考えて悩んだりしても、なにも始まらない。
外側をいじるのではなく、内側にアプローチすべきなのです。
今回の私の場合は、「今度なにかあったらこうしてああして・・」と外側にアプローチするのではなく、外側を無理に「よくしよう、よくなるように」と働きかけるまえに、自分自身の内側にアプローチすべきなのです。
もちろん、なにかあったとき、つい言いかえしたりあるいはケンカになってしまったりすることもあるかもしれません、それは仕方ないことです。それはそれでよいと思います。
しかし、すでに結果として起こってしまった外側ばかりをみてそれをなんとかしようと躍起になるのではなく、そういった現象をつくってしまっている原因(内側)をみるべきなのです。
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そこに気づいたとき、私は相手への憎しみが感謝に変わりました。そして、その人物の優しい笑顔、輝いている部分が見えました。
その人を信頼できるようになりました。いま起こっている状況も信頼できるようになりました。
今までは、その人のことを「意地悪なひと、弱いひと、性格のわるいひと」くらいにしか思っていませんでした。
そういう風に見なしていたのです。
だからそのとおりにふるまってくれた部分もあります。
人のことをそんなふうに断定的にカンタンに見なしてはいけない。
もともとは輝くたましいであるのだし、そこを信頼しないといけない。そここそを見て、そこに焦点をあてるべきなのです。
そう思い至ると、その人の優しさ、そしてイジメられている人の強さも見えてきました。見方が違ってきて、気持ちもおだやかになりました。
自分の内側が変わったのが分かりました。
もし、私が感情の勢いにまかせてイジメるひとに仕返しのようなことをしたら、事態は良くなるどころか、余計にこじれてややこしくなっていたでしょう。
だれも裁かれたくありません。
イジメているひとも、本当はわかっています。自分のやっていることを。
そしてそんな自分が本当は一番嫌いなのです。罪悪感のかたまりなのです。そこを責められ裁かれたら、逆上するのは目に見えています。あるいは自信をなくして反動として今度はその人がいじめられるような事態になったりするのです。
裁くことからは本当に何も生まれません。
やはり、許しなのだと思います。
イジメる自分、イジメられる自分、見て見ぬふりをする自分、そんなすべてを今、許すのです。
許せなくても「もう、許そう」と意思・意図するだけで、許せていきます。