公教育が崩壊するのでお祝いしよう
前記事で公教育は崩壊するということについて書きました。
そのうえで、今思っていることを書こうと思います。
今の公教育が崩壊するのは時間の問題
これは避けられないでしょう。
なぜなら時代は多様化し、テレワークをはじめさまざまな働き方、そして自由な生き方がこれほどまでに世の中に広まって浸透していっているのに、学校教育のやり方は昔とほとんど変わっていない。
(明治時代と同じだそうですね。)
同じ年齢の子どもが同じ時間に同じことを、一律に学ぶことを強制させられる。
どうしても今の時代に沿うものとは思えません。
内容も暗記中心の、しかもほとんど意味のないことが多いですね。
コロナのこと、政治や経済、科学の発達、宇宙の進行など
全部ひっくるめて、世の中のいろいろなことを振り返ってみると、
やはり今の教育は崩壊せざるを得ないと思います。
コロナによって、べつに学校でなくてもインターネットで十分に勉強できることが分かりましたし、仕事面でも、テレワークなどで仕事をすることが出来るのだということが分かりました。
勉強にしても仕事にしても、必ずしもわざわざ会社や学校に行かなくても成立するのだということが、証明されたのだと思います。
学校に行きたくない人や、会社に行くのが苦痛な人にとってはこれから楽しみな時代です。
選びはしない、でも否定もしない
しかしその中で思うことは、今までの公教育に合わない&選ばない人が
公教育を否定してやっつける、
ということではなく、やはりここでも、裁き戦うというスタンスではなく、一旦感謝して受け入れ、そこを祝福して天に還したいということです。
どんなことも、否定するとそこにとどまり続けるでしょう。
否定された傷として残骸が残るのです。
人でもモノでも出来事でもあなたに愛してほしいからです。
愛でしか、世界は回らないからです。
「受け入れる」というのは、そこの言いなりになることではなく、従うことでもありません。
【今の公教育を受け入れる】というのは、学校に従う、登校するということではありません。
ただ、否定したり戦ったりする代わりに、その古い学校のシステムを気持ちの上で許す。
そのうえで、単に選ばないという選択をすればいいのです。
それは、信頼することでもあります。
信頼といっても学校を信じてそこを頼りにすることではありません。
それそのもの(学校)がどんどんより良く素晴らしいものに
進化(新化)、発展していくこと自体を、信頼するのです。
この学校の状況は(どんな状況も)長い歴史にわたって私たちがいままでに創造したものです。
そこに「敬意」を払うことが大事だと思います。
自分たちで創造した作品を憎み、退け、恨んで否定することは愛ではありません。
目の前に展開される状況は、あなたご自身が(みんなで)創ったものでありますので、その作品の出来栄えがいまいちだったかな、もうちょっとステキな良いものを創りたいな。と思うのであれば、しっかり壊してまた新しいものをつくればいいのです。
憎んだり、否定するのは自分が苦しいですし、対象(この場合は学校)もあなたに憎まれて悲しいです。
そして学校を否定することは、学校関係者すべてを否定することと同意です。
今まで学校に関係しなかった人は、特に先進国ではほぼいないでしょうから、否定や憎しみの波動は多かれ少なかれ自分もふくめた世界の全部に、影響を及ぼすのです。
うちは、デモクラティックスクールにずっとお世話になっておりますが、その中で公教育を否定する方によく出会うことがあります。
もちろん、それはある意味仕方のないことです。
いろいろな経験をされてきて、学校にいくことで傷ついた経験をされている方は多いですから、否定されるのも無理はありません。
むしろ当然の反応です。
もちろん私もそうでした。
子どもの時から学校にはよい思い出はほとんどなく、卒業アルバムも写真も全部処分したほどです。
それくらい苦しいものでした。
しかし、そこと戦うのはやはり、無意味どころかどうしても争いを生むのです。
これは間違いありません。
どちらにも言い分があります。
正義があるのです。
あちらにはあちらの、こちらにはこちらの言い分。
どっちが正しいとかではなく、神の視点に立てばこれは単なる自我×自我の争いでしかありません。
明治時代から続く今の公教育は崩壊寸前です。
しかしそこで「ああ、よかった、学校なんて大嫌い、これからはオルタナティブ教育だよね、やっぱり!」などという姿勢を崩さないなら、いつまでたっても、逆にこの旧教育システムは居残るのです、壊れないのです。
否定したものは残るからです。
ですから私たちはあくまでも創造主の視点にたち、間違いなく自分自身で作ったこの公教育にあらためて感謝し、いままでありがとう、おつかれさまと心から伝え、そしてより進化したものに生まれ変われるように祈りたいのです。
そのあとは、新しい創造に取り掛かる。
つまり、あたらしいものに焦点を合わせ、そこを拡大していきます。
ちょうど彫刻家が、作品を創造するのと同じです。
出来栄えがいまいちでも、憎む必要は全然ない。
むしろ、もっと素晴らしいものを創れる能力、下地ができたのです。
苦しい思い、不自由な思い、その過程・経験自体に感謝して壊し、
さらに素敵な、栄えあるワクワクするものを創っていきましょう。
そこの居心地が良くなかったら、ほかに居心地の良いところが必ずある
それにはまず学校にしても何にしても、なんか違うと思うのであれば、そこから少しづつでもいいので(最初から完璧完全でなくてぜんぜんいいので)一旦離れてみようと決意することです。
そして離れていくごとに、他にもたくさんの可能性があることに気が付きます。
今までは、赤しか見えてなかったものが、じつは青もあった黄色もあった、それだけではなく色は無限のようにあったのだと気付きます。
世界はひろいですから。
いろいろなやり方、教育の方法、学校の種類があったんだと知れば、楽になります。
今までの学校に感謝し、別れを告げ、そして新しい世界を創りたい。
苦しい世界は卒業して、子どもも親も先生も、楽しく本当の幸せを感じられる学校に、これから作り変えられていくのですから。
その流れにもう突入しているのですから。
ですから戦うかわりに、統合したいです。
自分の内側で気持ち・波動が「戦う」→「統合」に変わるとそれが外側にあらわれます。
具体的にはどんな風に変わるかこれからの楽しみですが、今の小学校・中学校などの広い土地が、子どもたちが朝から笑顔で元気に集まる、自由でほんとうに楽しい場所でなると、わたしは予想しています。
決して無理に通わさせられるのではない、子どもたちが自主的に、「休みなんていらない!」と言うくらいの魅力的な楽しい学校です。
追伸
「否定しない・戦わない」と、何度も書いていますが、
「否定してしまう自分」も否定せず、そのまま受け入れてあげてください。
「憎んでしまう、憎みたい、戦いたい自分」も、そのまま受け入れてあげてください。
それでいいのです。本当に。
全部を創った創造主のあなたは、全部をいつくしむことで、全部が流れていきます。
肯定して過去を流して、更にあらたな進化したものを、受け取り続けてください。
その繰り返しになります。
その流れで、この世はどんどん発展していくのです。